最近僕はYoutubeに投稿する動画の企画と撮影をしました。

 

「お坊さんへの100の質問」という、一問一答形式で硬軟織り交ぜた質問をお坊さんにしていく、割と軽い感じの企画です。

 

とはいえ、専門の構成作家やカメラマン、ナレーターがいるわけではないので、企画全てを自分で作っていきます。

 

普段お坊さんとして過ごしている僕が、お坊さんにする質問をあらためて100問考えるのは、なかなか大変です。

 

おそらく動画を見てくださる一般の人が聞いてみたいことと、私がお坊さんとして聞いてみたいことは、ちょっと違います。

 

できるだけ一般の方に楽しんでいただけるように、でもお坊さんとしての芯の部分もキチンと感じて頂けるように、バランスに注意を払いながら質問を用意していきます。

 

少しだけ質問をご紹介しますと「髪の毛のお手入れってどのくらいの頻度?」「幽霊怖い?」「自分の宗派の祖師に会えたら、何を聞きたい?」など、結果として核心に迫るような、迫らないような、微妙な質問リストができあがりました。

 

 

今回ご出演頂いたのは臨済宗のお坊さんと浄土真宗のお坊さん。

 

細かな内容は是非動画をご覧頂きたいのですが、二つの作品を撮影し終えて強く感じたのは、それぞれの回答に死と生をどうとらえているのかが、抑えようもなくにじみ出ていることでした。

 

僕ら僧侶は、その宗派によって物事への視点が異なる傾向があります。

 

仏教には八万四千の法門があると言われますが、多くの経典の中から、祖師方が「どう生きて、どう死ぬか」を考え抜く中で出会った教えが、現代に残る宗派の根本になっているので、その流れの中にいる現代の僕らは、良くも悪くも大きな影響を受けています。

 

そこに自分自身の経験や知見が加えられて、個々人の死生観が練り上げられていきますが、僧侶が直接的に個人の死生観についてお話する機会はあまり多くないように思います。

 

エンターテイメントとして構成された動画の中で、僕はお二方の死生観について直接お尋ねした訳ではありません。

 

数多くの質問に取り組む姿や言葉の選び方、思いの伝え方の向こう側に、ふと立ち現れたそれぞれの「どう生きて、どう死ぬか」という思いに、深い感慨を覚えたのです。

 

 

振り返れば今を生きている人々誰しもが、その人の目から見える世界で人生を送っており、そこには秘めた死生観が存在しています。

 

自らのそれを冷静に見つめ言語化できる人、向き合うのが怖くて目をそらしている人、先人の遺した言葉に答えを求める人、自らの歩みの中で内面に答えを探す人と様々ですが、他者と共有できるチャンスは僕ら僧侶と同様にあまり多くないように感じます。

 

このコロナ禍のなか、自らの持つ死生観を意識せざるを得なくなった人たちもたくさんいらっしゃいます。

 

お互いが気軽にそれぞれの考えを分かちあえたり、感じたりできる機会が増えていけば、大変な時代を生きていく支えの一つになる。

 

そしてそれはオンライン/オフラインのどちらにも受け皿ができ始めているのだなと、あらためてご出演頂いたお二方の平素の活動を思い起しました。

 

あなたがもしどこかで、この動画をご覧になることがあったら、画面の向こう側で同じ時代を生きている僧侶の取り組みにも、是非関心を寄せて頂けると嬉しいです。

 

 

追記:動画は11月中旬に「寺社フェス向源 公式チャンネル」にアップされる予定です。
https://www.youtube.com/channel/UCTQd2gYhzeSMLcHAi_gOUTA

「今すぐ死にたい」と泣き叫ぶ見ず知らずの男性がお寺にいらっしゃった。

 

お話を伺いますので中へどうぞ、と本堂に上っていただいた。

 

声にならない声を必死に絞り出し、必死に自分の気持ちを言葉に変えてくださった。

 

その言葉を聞きながら、私は僧侶として今何をすべきかを一生懸命考えた。

 

しかし、すぐには掛ける言葉が出て来なかった。

 

その男性の生涯は世間で言う「普通」や「当たり前」という物差しが一切通用しなかった。

 

一人の人間がこうも苦しまなければならない理由は何なのか。

 

私には分からなかった。

 

精神の負担から食事は喉を通らず、夜は死への恐怖から一睡も出来ない。

 

しかし、家に一人でいるとその恐怖から逃れる為の手段としての「死」に期待してしまう自分がいる。

 

「死にたい死にたい死にたい」と言う男性の声が昼下がりの本堂に絶え間なく響いた。

 

 

そこへ丁度法務を終えた住職が帰ってきた。

 

「おぉ、どうしたの? そんなに泣いて。よく来たね」

 

そう言いながら男性の肩を叩くと、続けてこう言った。

 

「この寺はあなたの死に場所じゃない。この寺からまた生きなさい」

 

男性は勢いよく住職に抱きつき小一時間泣いた。

 

なぜだか私は少し安心していた。

 


「よしっ」と住職が立ち上がり、男性に「外に行くぞ」と言った。

 

男性は少し驚いたようだが、住職の勢いに負けて訳も分からず外へ出た。

 

住職は軍手と麦わら帽子を私と男性に渡して境内を指差した。

 

妙な間があって笑いそうになったが、それぞれが空気を読んで日が暮れるまで一言も話さず作務に励んだ。

 


「3人ともご飯よー」と言う母の声が台所から聞こえた時、すでに時計は19時を回っていた。

 


今思えば寺族の食卓に男性が混じっているのは不思議な光景だった。

 

そして何より本当に一切食事を摂れない姿を目にし悲しくなった。

 


結局その日は「もともと死にたくて来たのだから、1日くらい帰らなくても大丈夫だろう」という住職の暴論によって、男性はお寺に泊まることになった。

 

男性も一人が怖いので泊まりたいとの事だった。

 

翌朝5時のお勤めが終わると、また作務が始まった。

 

男性は一睡もできなかったようだった。

 

草取りや、仏具磨き、雑巾掛け窓拭きトイレ掃除、日が暮れるまでありとあらゆる所を3人で掃除した。

 

健康体の私が3度の食事と睡眠をとっても辛いのだから、男性にはさぞ辛かったろうと思う。

 


そんな生活が3日目の朝を迎えた時、男性に変化が訪れた。

 

用意された朝ごはんを泣きながら食べている。

 

半熟の目玉焼きをご飯に乗せ、醤油をかけて泣きながらかき込んでいる。

 

母は男性の茶碗を覗き「おかわり?」と聞いた。

 

男性は泣きながら頷いた。

 

納豆をかけ2杯目をかき込む男性は依然として泣いている。

 

その姿がなんだか可笑しくなったのか住職が笑いながら「うまそうだね」と言った。

 

男性は「はい。うまいです」と泣いた。

 

それを見て母が「よかったね」と泣いていた。

 

この男性にとって満足な食事はいつぶりなのだろうか。

 

よく映画や漫画で見る本当にしばらくご飯を食べていない人の食べ方だった。

 

 

食事を終えるなり、男性が照れながら住職に言った。

 

「住職、本当に申し訳ない。こんな事を言うのもなんですが、私は……」

 

「……」

 

「私は……」

 

「……」

 

「ここにいると修行がキツくて死んじゃいます。もう勘弁してください」

 

住職は大笑いしながら「死にたいんじゃないのかよ」と返した。

 

男性も大笑いしながら「死にたくないです」と言った。

 

矢継ぎ早に「なんだよそれ話が違うじゃねえか、俺の3日間は何だったんだよ」と言った住職は笑いながらもボロボロ泣いていた。

 

別れ際住職がボソッと言った。

 

「この寺からまた生きなさい」

 

二人は笑顔で握手した。

 

「はい。生きていきます」

 

私はあの夏、生まれて初めて『いのちの声』を聞いた。

 


 

2019年11月、京都在住の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の林優里さんから依頼を受け、2名の医師が嘱託殺人を行ったことが翌2020年7月に発覚し、社会に大きな問いを投げかけました。

 

この事件を契機に安楽死や尊厳死の話題が俎上にあがり、また医師やALS患者などさまざまな立場のかたがそれぞれの知識や経験をもとに意見を述べていて、どれを目にしても「なるほど」と思わされます。

 

中でも同じALS患者で参議院議員の舩後靖彦さんや、医師として活躍しながらALSを発症した竹田主子さんの言葉は、当事者性に加え深く広い知識と経験に基づいたものでした。

 

 

事件の経緯ですが、SNSで発信された林さんの思いが、安楽死について肯定的な考えを持っていたと思われる大久保愉一容疑者と山本直樹容疑者の2人の医師の元に届きます。

 

この2名、特に大久保容疑者は経歴などに問題があるようですが、ここではこの2名の思想や行為よりも、林さん本人の思いや、それを仏教的にどう捉えるかについて考えてみたいと思います。

 

 

まず今回の事件は、日本の法律では「殺人」であるものの、患者本人の意思が発端になっていることから「自死」の問題も含んでいると私は感じました。

 

それには私が「自死・自殺に向き合う僧侶の会」で活動し、多くの希死念慮者や自死遺族と接する機会があるからかもしれません。

 

活動の中で、複雑な問題を多く抱えた末に「死にたい」とまで仰るかたを目の前にすることがありますが、「いのちは尊いので死んではいけません」などと杓子定規なことはとても言えません。

 

時には、「この人はもう充分に苦しんだ、死んでもいいんだよと言ってあげたい」という気持ちになることすらありますが、その言葉を飲み込んで相手の言葉に耳を傾けています。

 

 

では、仏教では自死をどう捉えているのでしょうか。

 

よく「仏教では自死は禁止されている」とか「お釈迦さまは自死を戒められた」などと、まことしやかに語られることがあります。

 

しかしどの宗派のどのお経を読んでも、そんなことは書かれていません。

 

それどころかお釈迦さまは、直弟子のヴァッカリ尊者やチャンナ尊者が重病の苦痛から自死を申し出、また十大弟子のひとり目連尊者が暴行を受け重傷を負った苦痛から自死を申し出た際、それを無理には止めるようなことはしませんでした。

 

これは病気や怪我によって死が目前に迫り、かつ苦痛が激しい状態であったという条件のもとですが、お釈迦さまには「いかなる理由があっても自らいのちを絶ってはならない」という思想はありませんでした。

 

また後世、特に日本の平安期以降にはさまざまな死に様を記録した「往生伝」が編纂され、その中には自らのいのちを絶つ描写が否定的ではない形でいくつも描かれています。

 

仏教では自死は絶対的なタブーではないのです。

 

 

「尊厳死」という言葉があります。

「安楽死」という言葉と混同されますが、両者には微妙かつ明確な違いがあります。

 

まず尊厳死は、病気や怪我によって回復の見込みが無く、死期が迫り、医療機器によって延命が可能だけれどもその機器を用いない、あるいは外すことで自然な死を迎えることを意味します。

 

対して安楽死は、死期が迫っているか否かに限らず、肉体的苦痛や精神的苦痛を理由に、致死量の薬品の投薬などによって積極的に生命活動を停止させることを意味します。

 

林優里さんはALSという現代医学では回復不能の難病を患ってはいましたが、死期が迫っている状況ではありませんでした。

 

ただ、生きる希望を失っていたのか、主治医に胃ろうを中止して栄養補給を断って死なせてほしい(尊厳死)と提案しましたが、これは断られています。

 

そこから、自分の生命を終わらせてくれる医師に依頼をする(安楽死)という、今回の事件に繋がる手段を選んでいったのでしょう。

 

 

現代医学は、ALSをはじめとする難病にかかっていても、生命を維持し続けるだけの技術を有しています。

 

だからこそ今後、その医学をどこまで使用するのか、どういった条件で尊厳死や安楽死を認めるのか、慎重な議論が必要になってくることと思われます。

 

そこに仏教や僧侶がどう関われるか。

 

もし尊厳死や安楽死が法制化されれば、「空気を読む」感覚に長けている日本人は、生きたい本心にフタをして死を選ばざるを得ない状況に追い込まれる例が出てくるでしょう。

 

そこに「お釈迦さまは死を選ぶことを良しとした」などと仏教が部分的に切り取られ、ねじ曲げられた利用をされてはいけないという危惧を私は抱いています。

 

そうではなく、2500年にわたり生と死に向き合ってきた仏教の智慧と慈悲をもって、いのちの議論や現場に私たち僧侶が不可欠な存在になるべく精進せねばならないと思っています。

 

最後に、もし私が林優里さんから相談を受けていたとしたら……

 

文武両道で活発な女性であった彼女がALSを発症し、徐々にできないことが増え、今後は自力で呼吸もできない、人との意思の疎通も困難になると知って死を願ったとしたら……

 

私には彼女の願いを「ダメだ」と切り捨てることはできません。

 

ただ、ともに涙を流すことしかできないでしょう。

 

そうして「死にたい」とまで思う苦しみに寄り添いつつ、「けれど、生きる」という決断を支えられるような僧侶でありたいと思っています。

 

子どものころから、お習字が大好きでした。

 

ですから、半ば当然のように、高校では書道部に入りました。

 

ある日、顧問の先生に問いかけられました。

 

「たまちゃん、書道って何かわかるかい?」

 

何と答えたのかは忘れてしまったのですが、先生からはこんな風に言われました。

 

「書道は、『黒』によって『白』を美しく見せる芸術なんだ」

 

高校生ながらに衝撃でした。

 

それまで、先生のお手本に近づきたくて、拙いなりに、筆や墨のことを考えたり、線の練習を重ねていたつもりでしたが、それらはすべて、「黒い部分をどうするか」という話。

 

「余白が美しく見えるか」なんて、考えたこともありませんでした。

 

いえ、そもそも「余白なんて、見てもいなかった」のだろうと思います。

 

先生に言われたからと言って、すぐに「余白の美」のことはわかりませんでしたし、今でも書の腕前は「下手の横好き」でしかありません。

 

けれども、「余白が美しく見えるように」という意識が生まれたことにより、視界が開けたというか、心に良い風が吹くようになったというか……

 

書道に向き合う時の姿勢が、決定的に変わったように感じています。

 


書道に限らず、目先のことを追いかけすぎず、「その先にあるものを意識すること」は、とても大切なことのように思います。

 

例えば、私の住んでいる地域では、そろそろお盆のお参りが始まります。

 

お参りの中心にあるのは読経、つまりは声を出してお経を読むことです。

 

もちろん読経それ自体、とても大切であり、おろそかにできない行為ですが、読経という行為そのものは、決して最終目標ではないのだろうと思います。

 

やはり私は、読経の先にあるものとして、「ご家族やご先祖さま、私たちを見守って下さる仏さまのお気持ちにかなうように」という意識をもつことを、忘れたくはありません。

 

 

供養の場面に限らず、ただの人としても、「その先にあるもの」に目を向けることは、きっと大切なのですよね。

 

そう考えますと、次に挙げるお釈迦さまのことばも、ただ耳が痛いばかりのものではなくて、その先にある「お釈迦さま目線の楽しみ」のようなものを、見つめたことばのように思えるのです。

 

 

“恥を知らず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い”

 

“恥を知り、常に清きをもとめ、執着をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い”

 

(中村元訳『ダンマパダ』より)


……あぁ、でもやっぱり、耳は痛いですね。

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、さまざまな分野でオンライン化が進んでおります。「死の体験旅行」もオンライン開催について、総会の議題に上げて議論をいたしました。

 

僧侶の世界もIT化が進み、すでに会議や講演などでオンライン利用の頻度は上がっています。その経験を踏まえた上で検討した結果、「死の体験旅行」はオンラインでの開催に向いておらず、本来の効果を得られないばかりか、受講者に危険があるのではないか、という結論になりました。

 

「死の体験旅行」は受講環境に大きく影響を受けます。当会では受講の経験がより良いものになるよう、環境づくりに注力をしてきました。しかしオンライン開催では受講者の個々の環境に大きく左右され、多くの場合で受講者が受けられる効果が著しく低下するものと思われます。

 

また、心を大きく揺さぶられる経験であるだけに、当会では受講者のアフターフォローを大切にしてきました。対面であれば表情や顔色や声の震えなど、相手の心境の変化を五感で感じ取り、必要なケアを施すことができます。


しかしオンラインでは得られる情報が限られるため、心境の変化に気付きにくく、ケアの機会を失ってしまう可能性が高いと思われます。

 

さらなる社会状況の変化があれば再検討いたしますが、以上の理由から当会ではオンライン開催はせず、受講人数の制限や各種感染防止策を取りながら、全国の会員僧侶で対面でのワークショップ開催を継続して参ります。

 

受講希望のかたは、公式HP「開催情報」をご覧いただくか、当会までお問い合わせください。

 

開催情報
https://bvld.info/calendar