2019年11月、京都在住の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の林優里さんから依頼を受け、2名の医師が嘱託殺人を行ったことが翌2020年7月に発覚し、社会に大きな問いを投げかけました。

 

この事件を契機に安楽死や尊厳死の話題が俎上にあがり、また医師やALS患者などさまざまな立場のかたがそれぞれの知識や経験をもとに意見を述べていて、どれを目にしても「なるほど」と思わされます。

 

中でも同じALS患者で参議院議員の舩後靖彦さんや、医師として活躍しながらALSを発症した竹田主子さんの言葉は、当事者性に加え深く広い知識と経験に基づいたものでした。

 

 

事件の経緯ですが、SNSで発信された林さんの思いが、安楽死について肯定的な考えを持っていたと思われる大久保愉一容疑者と山本直樹容疑者の2人の医師の元に届きます。

 

この2名、特に大久保容疑者は経歴などに問題があるようですが、ここではこの2名の思想や行為よりも、林さん本人の思いや、それを仏教的にどう捉えるかについて考えてみたいと思います。

 

 

まず今回の事件は、日本の法律では「殺人」であるものの、患者本人の意思が発端になっていることから「自死」の問題も含んでいると私は感じました。

 

それには私が「自死・自殺に向き合う僧侶の会」で活動し、多くの希死念慮者や自死遺族と接する機会があるからかもしれません。

 

活動の中で、複雑な問題を多く抱えた末に「死にたい」とまで仰るかたを目の前にすることがありますが、「いのちは尊いので死んではいけません」などと杓子定規なことはとても言えません。

 

時には、「この人はもう充分に苦しんだ、死んでもいいんだよと言ってあげたい」という気持ちになることすらありますが、その言葉を飲み込んで相手の言葉に耳を傾けています。

 

 

では、仏教では自死をどう捉えているのでしょうか。

 

よく「仏教では自死は禁止されている」とか「お釈迦さまは自死を戒められた」などと、まことしやかに語られることがあります。

 

しかしどの宗派のどのお経を読んでも、そんなことは書かれていません。

 

それどころかお釈迦さまは、直弟子のヴァッカリ尊者やチャンナ尊者が重病の苦痛から自死を申し出、また十大弟子のひとり目連尊者が暴行を受け重傷を負った苦痛から自死を申し出た際、それを無理には止めるようなことはしませんでした。

 

これは病気や怪我によって死が目前に迫り、かつ苦痛が激しい状態であったという条件のもとですが、お釈迦さまには「いかなる理由があっても自らいのちを絶ってはならない」という思想はありませんでした。

 

また後世、特に日本の平安期以降にはさまざまな死に様を記録した「往生伝」が編纂され、その中には自らのいのちを絶つ描写が否定的ではない形でいくつも描かれています。

 

仏教では自死は絶対的なタブーではないのです。

 

 

「尊厳死」という言葉があります。

「安楽死」という言葉と混同されますが、両者には微妙かつ明確な違いがあります。

 

まず尊厳死は、病気や怪我によって回復の見込みが無く、死期が迫り、医療機器によって延命が可能だけれどもその機器を用いない、あるいは外すことで自然な死を迎えることを意味します。

 

対して安楽死は、死期が迫っているか否かに限らず、肉体的苦痛や精神的苦痛を理由に、致死量の薬品の投薬などによって積極的に生命活動を停止させることを意味します。

 

林優里さんはALSという現代医学では回復不能の難病を患ってはいましたが、死期が迫っている状況ではありませんでした。

 

ただ、生きる希望を失っていたのか、主治医に胃ろうを中止して栄養補給を断って死なせてほしい(尊厳死)と提案しましたが、これは断られています。

 

そこから、自分の生命を終わらせてくれる医師に依頼をする(安楽死)という、今回の事件に繋がる手段を選んでいったのでしょう。

 

 

現代医学は、ALSをはじめとする難病にかかっていても、生命を維持し続けるだけの技術を有しています。

 

だからこそ今後、その医学をどこまで使用するのか、どういった条件で尊厳死や安楽死を認めるのか、慎重な議論が必要になってくることと思われます。

 

そこに仏教や僧侶がどう関われるか。

 

もし尊厳死や安楽死が法制化されれば、「空気を読む」感覚に長けている日本人は、生きたい本心にフタをして死を選ばざるを得ない状況に追い込まれる例が出てくるでしょう。

 

そこに「お釈迦さまは死を選ぶことを良しとした」などと仏教が部分的に切り取られ、ねじ曲げられた利用をされてはいけないという危惧を私は抱いています。

 

そうではなく、2500年にわたり生と死に向き合ってきた仏教の智慧と慈悲をもって、いのちの議論や現場に私たち僧侶が不可欠な存在になるべく精進せねばならないと思っています。

 

最後に、もし私が林優里さんから相談を受けていたとしたら……

 

文武両道で活発な女性であった彼女がALSを発症し、徐々にできないことが増え、今後は自力で呼吸もできない、人との意思の疎通も困難になると知って死を願ったとしたら……

 

私には彼女の願いを「ダメだ」と切り捨てることはできません。

 

ただ、ともに涙を流すことしかできないでしょう。

 

そうして「死にたい」とまで思う苦しみに寄り添いつつ、「けれど、生きる」という決断を支えられるような僧侶でありたいと思っています。

小学生か中学生の頃、社会の授業だったと思いますが、タイには固有の暦があると聞いて「ずいぶんややこしいな」と感じた記憶があります。

後になって知ると、それはお釈迦さまが亡くなった年、または翌年を元年とする仏暦で、タイだけでなくラオス・カンボジア・ミャンマー・スリランカなどの仏教国で使われているのだそうです。

 

お釈迦さまの正確な生没年は諸説あるものの東南アジアでは紀元前544年となっており、国によって没年が元年だったり翌年が元年だったりするようで、ややこしさに拍車がかかっています。

 

とはいえ西暦に543、または544を足すだけなのに対して、日本は数十年おきに元号が変わります。

 

頂きものの今年のカレンダーを見ると、2019年という西暦とともに、「平成31年・昭和94年・大正108年」と書かれています。

 

来年からは「令和」まで加わるのですから、仏暦の比ではないややこしさのはずです。

 

けれど自分が生まれた国の馴染みある暦は「当たり前」に感じ、他国の見慣れぬ暦はついつい「ややこしい」と感じてしまいます。

 

 

話は変わりますが、やはり小中学生の頃に読書少年だった私は、「一巻の終わり」という言葉に違和感を感じていました。

 

何しろ中学時代の目標が「図書室の本を全て読む」だったので(当然達成できませんでしたが)、何巻にもわたる長編の作品も読んでいました。

ですので屁理屈ですが、「一巻が終わったら二巻が始まるじゃないか」などと慣用句にケチをつけていたのです。

 

まあ本であればいつか必ず終わりがきますが、時間に終わりはありません。

 

昭和が終わったのも平成が終わるのも、私たちが勝手にそこを区切りとしているだけですし、1時間や1日や1年という区切りも人間が勝手に決めているだけのことです。

 

人の生涯も、医師が「ご臨終です」と死亡診断をした時に終わりを迎えるのですが、果たしてそれは本当に「終わり」なのでしょうか?

 

もちろん個体の生命としては終わりを迎えるのですが、子や孫がいれば爐い里銑瓩受け継がれています。

 

直接の子孫がいなくても、人は他者と縁をつむぎながら生きていますので、その縁や思いが受け継がれていくことでしょう。

 

生命そのものは「一巻の終わり」であったとしても、その存在は無になってしまうわけではありません。

 

また仏教をはじめ、様々な宗教で爐い里銑瓩鮟えた後の世界が語り継がれています。

 

私は浄土真宗の僧侶ですので、「遥か西の彼方、極楽浄土に仏となって生まれ、縁ある人々を見守る存在になるのだ」と受け止めています。

 

仏としての「二巻の始まり」があると信じているのです。

 

 

40代も半ばになり、少しずつ親しい方が亡くなっていきます。

 

けれど「二巻目の世界」があるという思いに励まされ、いつ終わるかわからない「一巻目」を生きていける。

 

私はそう感じています。

JUGEMテーマ:仏教

 

日本の夏は死の影を孕んでいる。

 

強い陽射しに世界は照らし出され、植物は生命力に充ち満ちているから、生の季節ではないだろうかと思われるかもしれません。

 

けれど光が強く射すからこそ、影もより色濃くなるように感じます。

 

蝉は地上での短い時間を過ごして骸をさらし、蚯蚓もアスファルトの上で干からび転がっています。


また歴史をさかのぼれば、広島と長崎に原爆が投下され終戦を迎えたのも真夏で、今でも毎年8月に原爆忌が営まれます。

 

そして夏はお盆の季節です。

 

7月盆の地域、8月盆の地域、他にも8月上旬や7月8月下旬に地蔵盆を行う地域もあります。

 

全国各地で様々な風習・習慣がありますが、総じて共通しているのは「数日の間、亡き方やご先祖さまが帰ってくる」という部分でしょう。

 

日本人にとって夏は、生と死が色濃く映し出され、戦禍で亡くなった方々を想い、亡き方々と交流する季節なのです。

 

 

お盆という言葉の起源は諸説あります。

 

仏教には『仏説盂蘭盆経』というお経がありますが、かといってお盆が仏教のみをルーツとした行事かというと、そうとも言えないようです。

 

むしろ日本人が古来より抱いていた宗教観・死生観・死後観が、仏教と絡み合っていった日本特有の習慣になっています。

 

普段「無宗教です」と言っている現代人が、お盆には墓参りに行って手を合わせるのは矛盾しているように見えます。

 

でも人は理性だけで生きているわけではなく、感情のある生きものですので、その矛盾は好ましいものであり、解消しなくてよいものだと私は思います。

 

 

日本特有の習慣と書きましたが、亡き方や先祖を想うことは、実は人種や宗教を越えて行われています。

 

たとえばここ数年で急に盛り上がりを見せているハロウィン。

 

若者が仮装をして街に繰り出し、変装したことで高揚して大騒ぎをしている報道を見て、最初は眉をひそめていました。

 

しかしルーツを調べるとケルト人の慣習で、死者の霊が家族を尋ねてくるという考えに基づいているそうです。

 

亡き方が生者を訪れる、まさにお盆と同じ構造です。

 

ちなみにその時、悪魔や魔女も一緒にこの世に出てきてしまうので、それを避けるために魔物や魔女に変装をするのだそうです。

 

また今年のディズニー映画『リメンバー・ミー』は、メキシコなど中米地域の慣習である「死者の日」をモチーフにしているそうです。

 

「死者の日」もまたお盆のように、亡き方が数日の間この世に帰ってくるものと考えられていて、生者はドクロをモチーフにした仮装をするのだそうです。

 

おそらく世界中に、これに類似する習慣があると考えられます。

 

 

「死んだら終わり、なにも無い」というのもひとつの死生観です。


けれど時おり死者と交流しながら生き、自分が死んだ後の世界に想いを馳せる。

 

目に見える世界だけが全てではないのだと思いながら生きる。

 

そうした生きかたは、私たちの人生を豊かに彩ってくれるのではないでしょうか。

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