子どものころから、お習字が大好きでした。

 

ですから、半ば当然のように、高校では書道部に入りました。

 

ある日、顧問の先生に問いかけられました。

 

「たまちゃん、書道って何かわかるかい?」

 

何と答えたのかは忘れてしまったのですが、先生からはこんな風に言われました。

 

「書道は、『黒』によって『白』を美しく見せる芸術なんだ」

 

高校生ながらに衝撃でした。

 

それまで、先生のお手本に近づきたくて、拙いなりに、筆や墨のことを考えたり、線の練習を重ねていたつもりでしたが、それらはすべて、「黒い部分をどうするか」という話。

 

「余白が美しく見えるか」なんて、考えたこともありませんでした。

 

いえ、そもそも「余白なんて、見てもいなかった」のだろうと思います。

 

先生に言われたからと言って、すぐに「余白の美」のことはわかりませんでしたし、今でも書の腕前は「下手の横好き」でしかありません。

 

けれども、「余白が美しく見えるように」という意識が生まれたことにより、視界が開けたというか、心に良い風が吹くようになったというか……

 

書道に向き合う時の姿勢が、決定的に変わったように感じています。

 


書道に限らず、目先のことを追いかけすぎず、「その先にあるものを意識すること」は、とても大切なことのように思います。

 

例えば、私の住んでいる地域では、そろそろお盆のお参りが始まります。

 

お参りの中心にあるのは読経、つまりは声を出してお経を読むことです。

 

もちろん読経それ自体、とても大切であり、おろそかにできない行為ですが、読経という行為そのものは、決して最終目標ではないのだろうと思います。

 

やはり私は、読経の先にあるものとして、「ご家族やご先祖さま、私たちを見守って下さる仏さまのお気持ちにかなうように」という意識をもつことを、忘れたくはありません。

 

 

供養の場面に限らず、ただの人としても、「その先にあるもの」に目を向けることは、きっと大切なのですよね。

 

そう考えますと、次に挙げるお釈迦さまのことばも、ただ耳が痛いばかりのものではなくて、その先にある「お釈迦さま目線の楽しみ」のようなものを、見つめたことばのように思えるのです。

 

 

“恥を知らず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い”

 

“恥を知り、常に清きをもとめ、執着をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い”

 

(中村元訳『ダンマパダ』より)


……あぁ、でもやっぱり、耳は痛いですね。

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