飼っていた金魚が、突然死んでしまった。

 

幼稚園に通う娘が、毎日話しかけていた金魚。

なんて説明しようか考えているうちに、娘が先に気づいてしまった。

 

「あれ?金魚さん、どこ行ったの?」

 

「・・・あのね、金魚さんは死んじゃって仏さまの世界に行ったんだよ」

 

娘は首を傾げる。

 

ペットを飼うのは「いのち」を考えるきっかけになるとは思っていたけれど、やはり死とは突然やってくるもの。

 

娘になんて説明しようか、しっかり考えていなかった。

 

いつも大人に向かって「いのち」の話をしているが、幼い子どもに「いのち」の話をするのは初めてだった。

 

いろんな話をしてみるが、わかってくれたかな。いや、きっとうまく伝わらないんだろうな。

 

「生きているものにはみんな、いのちがある。いのちはいつ終わるかわからないんだよ。おとうさんもおかあさんも、いつかはいなくなるんだ」

 

「・・・わたしも?」

 

「そうだよ。金魚さんもぼくらも、みんなおんなじ」

 

娘が、ちょっと悲しそうな顔をしたように見えた。

 

「だから、とてもだいじなんだ。だからみんなにナムナムするんだよ。みんなにやさしくしないとね」

 

と話したところで、娘が「あのさ、運動会の時ね・・・」と違う話題に変えた。

幼い子どもということに加えて自分の娘という思いがあふれて、なんだかうまく伝えられなかった気がする。

 

でも、かわいい金魚のおかげで娘と初めて「いのち」について考える時間を持つことができたのだ。

 

とっても悲しいことだけど。

 

「いのちと申すものは一切の財の中に第一の財なり」(日蓮宗の宗祖、日蓮聖人のお手紙『事理供養御書』より)

 

わたしたちは、かけがえのないいのちに囲まれながら尊いいのちを生きている。

 

さあ、いのちの話をしよう。

私事で恐縮だが、今年は厄年。それもいわゆる本厄だった。

 

それなりに悪いこともあったが、良いこともあった。

 

このまま厄年も終わるのか、と思っていたところ、この年末に事件が起きた。

 

車のカーナビが突然、壊れたのである。

 

その日の朝、信号待ちをしていた時に突然、画面が真っ黒になり警告文が表示されたままに。

なんということだ。

 

冷静に考えれば、購入してからほぼ7年。いつ壊れてもおかしくないはずなのに、ずっとこのまま使い続けられると思い込んでいたのである。

 

そこでふと考える。

 

私たちも、私たちの大切な人も、ずっとこのまま生きていられる。生き続けられると思っていないだろうか。

 

命は限りあるもの。

 

いつ命を終えるかわからない。

 

口では話して、頭ではわかっているつもりでも、実際はどうだろうか。

 

現代は「死が遠くなった」ようにも感じる。

 

医学が進歩して高齢化が進み、その一方で核家族化が進み高齢者と一緒に暮らしていない家庭も多い。

 

死を実感しないまま大人になり、自らが高齢者になっていく。

 

近世の日蓮宗徒の臨終に向けた信行のあり方を示した著作として『千代見草』がある。

 

日蓮宗総本山、身延山久遠寺の中興の三師(日重・日乾・日遠)の一人として江戸初期に活躍した、心性院日遠上人(1572-1642)の著と伝えられる。

 

“我が臨終は今日この日、唯今なり”

 

“ねてもさめても、心に思ひならはしたらば、三宝の擁護とよりあひて、正念に本懐をとぐべき也”

 

南無妙法蓮華経のお題目を受持してお唱えしていくことで、いつとも知れぬ死期に臨んでも邪念を起こすことなく悟りの智恵に至ることを目指す。

 

信仰によって安らかに静かに死に臨む、ということが説かれている。

 

信仰は、死への恐れや不安に向き合うために私たちを力強く励ましてくれる。

 

そして私たちの死が、すぐそばにある身近なものだと考える時、日常の景色は今までと違って見えるかもしれない。

 

命の大切さを知った時、日常はきっと輝きを増すだろう。

 

死ぬことを考えることは、生きることを考えるということ。

 

秋田市の自坊でも年間数回、「死の体験旅行」ワークショップを開催しているが、最近ではワークショップ終了後に「デスカフェ」も行うようにしている。

 

デスカフェとは、カフェのようなリラックスした雰囲気の中で死についてカジュアルに語り合う場である。

 

死が遠くなり、なんとなく死の話題を避けて暮らしている私たち。

 

しかし命について、生と死について語り合うことはこれからますます重要になる。

 

デスカフェでは毎回、それぞれの死生観や体験談、供養のあり方についてなど、様々な話で時間を忘れて語り合っている。

 

このような場所と機会の必要性を感じるとともに、これがお寺本来の大切な役割のひとつではないかと思う。

 

この仏教死生観研究会の活動がその支えとなっていければ、と感じている。

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