後輩が突然の病で入院した。

 

まだ30代で健康そのものだったので暫くすれば回復するだろうと思っていたが、病名もはっきりしないまま意識が戻らない状態となっていた。

 

どうやら麻酔の量が原因らしく、一向に目が覚めないまま時間だけが過ぎていった。

 

一ヶ月ぐらい経った頃だろうか、部屋の片づけをしていると整理棚の間からス〜ッと写真が落ちてきた。

 

ふと見ると僧侶の青年会で、子供たちの修養道場の準備をしている彼の写真だった。

 

「なぜこんなところから彼の写真が??」その瞬間、電話が鳴った。

 

「虫の知らせ」とでも言うのだろうか、嫌な予感は的中した。

 

わたしは彼が自分の死を知らせにきたのだと確信した。

 

すぐさま本堂に向かい、仏さまの前で泣きながらお題目を唱えた。

 


世の中には「虫の知らせ」や「お迎え現象」といった不思議な現象がある。

 

「お迎え現象」とは臨床時の枕元に、亡くなった人が迎えに来るかのように現れることである。

 

お檀家さんで90代の女性のお見舞いに伺った際に、「昨夜、母がベッドに入ってきて添い寝をしてくれて私の頭を撫でてくれた、久しぶり母に会えて嬉しくて母の温もりを感じた」と話されたことがある。

 

「お迎え現象」だったのか、それから数日後に安らかに亡くなられた。

 

医学では譫妄(せんもう)と言われるが、本当のところは解明されていない。

 

非科学的な事なので「わからない」というのが正解なのだろう。

 

「お坊さんは霊が見えるのですか?」「死後の世界はあるのですか?」と質問されることがよくある。

 

霊という怖いイメージのものではなく、亡くなられた親しい人や広く言えば仏さまを感じることはあるし、死後の世界も暗い怖い世界ではなく、親しい人とまた会える場所があると信じていると答えている。

 

非現実的な現象と体験談は胡散臭いと言えば胡散臭いが、一方で宗教的信仰的体験とも言える。

 

死は植物が枯れるのと同じように自然なものなので、医療をどんなに尽くせども人は必ず死を迎える。

 

その死と向き合う時の支えとなるのが宗教的信仰的な体験ではなかろうか。

 

人生の最後が断崖絶壁から滝つぼに落ちるようなものでは、なんのために努力し我慢し生きているのか人生そのものの意味が見出せないだろう。

 

いのちは今生限りのものではなく、死をもって無になるようなものではない。

 

「あの世」というところは「往く」ところなのか「還る」ところなのか、個々人の宗教観や死生観によって違いはあると思うが、死んでから困らないように、そして迷わないように、生きているうちに「往くところ」「還るところ」の道しるべとなるものを醸成しておきたい。

元旦の朝は、先ず本堂で新年のお勤めをし、檀信徒のみなさまと社会の安全、各家のご多幸をお祈りする。

 

今年は山田錦とみりんをブレンドしたお屠蘇をいただき、新年のお祝いをした。

 

祈祷会が終わって皆さんがお帰りになられてから、ゆっくりとお正月を過ごすのが我が家の恒例だ。

 

お酒、おせち料理、白味噌のお雑煮をいただき、年末ジャンボで300円をゲット、そして年賀状を見る。

昨今はSNSなどにより年賀状を出す人が少なくなったと云われるが、お正月に年賀状をいただくと嬉しく有難く思う。

 

そもそもは年が明けてから「あけまして」と書くものだったそうだ。

 

一言書き添えられたもの、ご家族の集合写真、近況報告、個性あふれる力作もあり、いただいた年賀状に心が温まる。

 

そんな中、友人からの年賀状に、心に刺さる言葉が書かれていた。

 

「これまでがこれからを決める」のではない。
「これからがこれまでを決める」のだ。(藤代聡麿)

 

東京オリンピックの年に生まれた私は、人生の後半戦を歩んでおり、故にこの言葉は新鮮で希望を感じた。おそらく友人もそうだったのだろう。

一般的には「これまで」という過去の上に「これから」という未来が成り立っていると考える。

 

「これまで」という過去の事実は変えられないし、消すこともできない。

 

しかし、「これから」の生き方次第で、「これまで」の意味が大きく変わると教えてくれている。

 

受験、就職、恋愛、結婚、出産、子育て、介護、病「あんなことがなければ・・・」と、過去の失敗を後悔したままの人生を過ごすのと、「あんなこともあったけれど・・・」と、感謝を持って人生を過ごすのでは、過去の失敗の意味が変わってくる。

 

 

過去・現在・未来という時間軸では、現在を基準に「これから」を考えるが、現在をいのちが終えようとする臨終の時とした場合はどうだろう。

 

「死んだら終わり」「死ねば無になる」と思うのであれば、どんなに充実した人生であったとしても、全て消えて無くなってしまうのであれば、生きてきた「これまで」が空しいものになってしまう。

 

死後が有るのか無いのか謎だらけではあるが、究極には死後の「これから」が人生の「これまで」の意味を決めることになる。

 

 

まもなく平成から新しい元号へと改元される。

 

失われた20年、天変地異、大災害、多くの方が亡くなられた。

 

私たちが「これから」の時代をどのように生きるのか、私たちの生き方次第で亡くなられた方のいのちの輝きも増すのではなかろうか。

 

なによりも死を意識して生きることで、生をより深く観じることができるだろう。

 

気付かなかった優しさに気付く、大切な人を大切に思う、当たり前だと思っていたことが有難いことだと思える、そのような心持でありたい。

 

ところで、死後もいのちは続くのだろうか?死んだら何処かへ往くのだろうか?

 

法華経には「死んでも死なないいのち」としてお釈迦さまの久遠のいのちが示されており、私たちもお釈迦さまと同じ、久遠のいのちを授かっていると説かれている。

 

どうやら、死んでも終わらないようだ。

 

そういえば、友人からの年賀状に「また飲みにいきましょう」と添えられていた。


山田錦で一杯やろう。

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