今年に入って、ある方から時計をいただきました。

 

その方の節目となる行事の記念品です。

 

時計は、目に見えない時の流れを「時間」という目に見える形に変換するものです。

 

時間は命だといわれることがあります。

 

 

お経の中に、時間をネズミに譬えた話があります。

 

一人の旅人が見通しの悪い草原を歩いていました。

 

すると後ろから大きなゾウがまっすぐ向かってきます。

 

必死の思いで逃げていると、古井戸を見つけました。

 

井戸には一本の藤蔓が垂れ下がっています。

 

「助かった」と藤蔓をつたって井戸に逃げ込みました。

 

蔓にぶら下がりながら深い井戸の底を見ると、水面から大きな龍が口を開けて待ち構えています。

 

上にも下にも逃げられない。

 

どうしたものかと井戸の出口を見ると、つかまっている藤蔓を白と黒のネズミが交互にかじっているのが見えました。

 

このままでは蔓が切れて井戸の底に落ちてしまいます。

 

万事休すかと震えていると、そばに生えていた木の上から5滴のハチミツが落ちてきました。

 

旅人はその甘さに心を奪われて、今にも命終わるかもしれない状況の中、ハチミツを口に入れることに必死になっておりました。

 

 

この話に出てくるものは、それぞれ以下のものに譬えられています。

 

「一人の旅人」は人生の旅を歩む私自身。

「追いかけてくる巨象」は私に迫りくる無常

「ぶらさがっている藤蔓」は私の寿命。

「白と黒のネズミ」は昼と夜の時間の流れ。

「井戸の底の龍」は死。

「五滴のハチミツ」は人の五欲(食・財・色・名誉・惰眠)。

 

私の命はすぐにでも終わりを迎えるかもしれない。

 

刻一刻とその時は迫っている。

 

しかしそのことを直視せず、欲望や感情に振り回されている人間の姿を現しています。

 

 

2017年、105歳で亡くなった医師の日野原重明さんは、こどもたちに「命の授業」という取り組みをされていました。

 

「命はどこにあると思う?」と、こどもたちに問いかけます。

 

こどもたちは「心臓」や「頭の中」と答えます。

 

日野原さんは、心臓も脳も大事だけれども、どちらも体の一部分で命そのものではないんだよ、と話します。

 

そして「命は見ることはできません。命というのは君達が持っている時間だから」

 

「一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えてほしい。そして大きくなった時に、その命を誰かのために使うことを学んでほしい」と伝えられたそうです。

 

 

時計によって目に見える形となった時間。

 

その時間によって、命の姿もより鮮やかに見えてくるのではないでしょうか。

 

 

僧侶として葬儀に関わる時、故人のエピソードを聞かせてもらうことがあります。

 

どんな出会いや別れがあったのか。

何が好きで、どんなことに打ちこんできたのか。

人生の節目、節目の思い出。
家族と一緒にいた時の様子。
仕事をしていた時の様子。
そして最後の様子。

 

その一つひとつが、その人の紡いできた時間であり、命の姿であると受け止めることができます。

 

私たちはふだん時間を気にしながら生活をしていますが、それは私の命のあり方を気にすることにも繋がるのだと思います。

 

時間はただ過ぎていくのではなく、今この時も私の命の輪郭を描いているのです。

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